大贤者
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第一次渾作戦[編集]
南西方面艦隊は意見具申の前の5月24日には南方軍よりミンダナオ島ザンボアンガにいた陸軍の海上機動第2旅団の海上輸送協力について打診されていた。渾作戦に当たりこれが増援部隊として選ばれた。同旅団は、もともと逆上陸作戦の専門部隊として編成された部隊で、ニューギニア方面へ向かう途中で輸送船が攻撃を受けてミンダナオ島へ待機中だった。
5月29日、日本側においてはニューギニア方面部隊よりニューギニア中部北岸のホーランジアフンボルト湾に敵艦隊発見の報告があった[9]。
6月2日、増援部隊を乗せた艦隊はミンダナオ島ダバオを出発し、ビアク島へ向かった。艦隊は以下の編成で左近允尚正少将が指揮した。
輸送隊本隊:重巡「青葉」、軽巡「鬼怒」、駆逐艦「敷波」、「浦波」、「時雨」
輸送支援隊:敷設艦「津軽」、「厳島」、第127号輸送艦、第36号駆潜艇、第37号駆潜艇
警戒隊:重巡「妙高」、「羽黒」、駆逐艦「白露」、「五月雨」、「春雨」
間接護衛隊:戦艦「扶桑」、駆逐艦「風雲」、「朝雲」
3日、部隊は敵哨戒機に発見された。さらに、陸軍の偵察機からアメリカ機動部隊発見の報告があったため、部隊は作戦を中止してソロンへ向かうよう命じられた。ソロンに到着すると陸軍部隊は揚陸され、艦隊は退避した。その後、機動部隊発見は誤報と判明したが、後の祭りだった。
第二次渾作戦[編集]
増援作戦は再開されたが、高速の駆逐艦だけによる輸送に切り替えられることとなった。旅団全部隊を一度に輸送することは不可能のため、約600人が第一陣として運ばれることになった。
8日3時、部隊は駆逐艦「敷波」、「浦波」、「時雨」、「白露」、「五月雨」、「春雨」の6隻で再度ソロンから出撃した。12時30分、B-25による空襲を受け春雨が沈没したが、部隊はそのままビアク島へ向かった。22時頃、重巡「オーストラリア(HMAS)」、軽巡「ボイシ」、「フェニックス」、駆逐艦14隻からなる連合軍艦隊と遭遇した。連合軍艦隊からのレーダー射撃を受けたため退避行動に移り、連合軍艦隊も高速発揮できる巡洋艦艦隊であったが、かろうじて離脱に成功した。しかし、日本艦隊は至近弾などで損傷し、輸送も中止された。
第三次渾作戦[編集]
2度の失敗から、連合艦隊司令部ではビアク方面の水上部隊を排除しない限りビアク突入は不可能と判断し、10日未明の決定により兵力が強化され、以下の艦艇で3度目の作戦が行われることとなった[10]。なお、淵田、奥宮は大和型戦艦2隻を投入したのは「あくまで敵機動部隊を誘い出す為の窮余の一策」だと述べている[11]。
攻撃部隊:戦艦「大和」、「武蔵」、重巡「妙高」、「羽黒」、軽巡「能代」、駆逐艦「沖波」、「島風」、「朝雲」
輸送部隊:重巡「青葉」、軽巡「鬼怒」、駆逐艦「満潮」、「野分」、「山雲」、敷設艦「津軽」、「厳島」、第36号駆潜艇、第127号輸送艦
補給部隊:タンカー第2永洋丸、第37号駆潜艇、第30号掃海艇
部隊は6月12日、指定されたソロン沖バチャン泊地に集結した。しかし、11日にはアメリカ機動部隊がマリアナ諸島へ来襲したため、豊田長官は13日17時27分「あ」号作戦決戦用意を発令し、渾作戦は中止された。陸軍部隊はそのままソロンへ残置された。
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