任天堂、もがく独創の王国 忍び寄る黒船
世界の家庭用ゲーム市場をゼロから切り開いてきた任天堂。ヒット作品の有無で業績が乱高下する「ばくち経営」からの脱皮や集団指導体制への移行を目指すが、行きすぎれば、日本を代表する独創企業のDNAを損う。「独創」と「安定」の間でもがく任天堂の悩みは深い。
あっけない幕切れ
2018年12月。大手部品メーカーのもとに任天堂からある通達が届いた。「QOL事業の開発を中止します」。あっけない幕切れだった。
「Quality Of Life(生活の質)」の頭文字を取った同事業の構想を打ち出したのは天才プログラマーと称された元社長の岩田聡。急逝する1年前の14年のことだ。以来、睡眠の質を向上させる機器の開発に取り組んできた。
試作機も完成に近づき、ようやく日の目を見ようとしていた矢先の頓挫。今も社内の一部では開発の復活を希望する意見がくすぶる中、ある任天堂関係者は中止の理由を「任天堂らしい商品にできなかったから」と明かす。リーダーシップの不在で開発のコンセプトが定まらず、揺れ続けた。多くの人材と資金を投じてきたが、開発中止を決めるまで5年もの時間が流れた。
任天堂の礎となったゲームウオッチやファミリーコンピュータ。立役者が1949~2002年に50年以上にわたり社長を務めた山内溥(13年に死去)だ。
社内競争が力に
山内の社長時代は、開発陣を複数の部署に分けて、社内で激しい競争をさせた。山内は叱咤と称賛を巧みに使い分け、開発者たちのモチベーションをコントロール。山内に認められさえすれば、若手でもアイデア1つで商品化できることを意気に感じ、開発者は仕事に邁進した。意思決定に時間をかけることなく、次々と世の中にないゲーム機を生み出していった。
一方、次の社長の岩田時代から、徐々に開発部署の一本化が始まる。代表取締役専務だった竹田玄洋(70)が10年頃にハードの開発陣を1つに統合。ゲームの高性能化に伴い開発工数が増える中、開発チームの人数を拡大する必要があったためだ。岩田が死去し、合議制による社内の協議がさらに重視されるようになった。多くの上司や役員からの決裁を得なければ新商品を投入できなくなった。
任天堂は主力ゲーム機「ニンテンドースイッチ」の小型廉価版を今秋にも発売する。屋外に持ち出す携帯型としての機能がメーンだが、テレビにつなぐ据え置き型としても遊べる。関係者によると、携帯型、据え置き型の2機種を併売してきた30年来の戦略を見直し、ソフト開発部門も一本化する検討を進めている。社内競争はますます過去のものとなりつつある。
4月12日にスイッチ向けに発売した任天堂初の仮想現実(VR)ゲーム。段ボール模型と組み合わせて遊ぶソフト「ニンテンドーラボ」の第4弾として投入する。段ボール模型に液晶画面が付いたスイッチ本体を差し込み、ゴーグルでのぞき込んで遊ぶ。
実はVRゲームの検討自体は3~4年前から始まっていた。VRゲームが普及する前に出していれば先駆けとなれたが、合議制が足かせとなり投入が遅れた。「ソニーなどが既に高性能なVRゲームを投入しており、新規性が薄い」との声が社内外で上がる。QOL事業と同様、意思決定がもたつき、後れを取った。
第1世代の懸念
「全く新しいものを発想する力が今の若手開発者には欠けている」。最近、任天堂を去った著名ゲームプロデューサーは強い懸念を抱く。マリオの生みの親で、現在、代表取締役フェローを務める宮本茂(66)とともに、黎明期からゲーム開発を引っ張ってきた。そうしたゼロから家庭用ゲーム市場を作り上げた世代は宮本を残してほとんどが引退した。宮本自身、20年には内規が示す退任時期である68歳を迎える。
元社長の岩田は任天堂に入社した00年以降、経営企画室長として、それまで10~20人程度だった大卒の新入社員を一気に100人規模に増やした。規模拡大を図る中で、「開発者が足りない」との判断だった。家庭用ゲーム機が行き渡った後に入社したこの世代が任天堂の開発者の人口ピラミッドで最大の層となっているが、ゼロから1を開発する経験は少ない。
「入社試験の成績の上から採ったら東大、京大ばかりになる。このままでいいものか」。19年春の新卒者の採用活動が佳境を迎えた1年前。採用を担当する上席執行役員の高橋成行(65)は京都市内の飲み屋で部下に悩みを打ち明けた。
任天堂はいわゆるエリートと呼ばれる人材が独創を生み出してきたわけではない。宮本は金沢美術工芸大学の出身で、かつては画家志望だったとされる。開発陣の世代交代が進む中、「高学歴者ばかりの集団になって戦えるのか」との声が少なくない。
スイッチも小型廉価版の次は、現行機をフルモデルチェンジした次世代機の開発が控える。操作性や映像表現の向上、基本ソフト(OS)の変更など、様々な試行を繰り返しているとみられるが、ここでも「誰がコンセプト作りを先導するのかはっきりしない」(ある開発者)という状況だ。
迫る大変革の足音
ゲーム業界には大変動の足音が迫る。日本でも20年春に始動する次世代通信「5G」は通信速度が現行の4Gの約100倍。データ容量が大きいゲームを遊ぶのに不可欠だった、SDカードなどの記録媒体やゲーム機へのダウンロードが不要になる。
動画や音楽と同様にクラウドを経由した配信がゲームでも一般的になれば、スマートフォンやタブレット、パソコンなど端末を選ばずに遊べるようになる。家庭用ゲーム市場をほぼ独占してきたスイッチのような専用のゲーム機がガラパゴス化する可能性すらある。
3月には米グーグルがクラウド経由のゲーム配信を年内に、アップルが定額でゲームが遊び放題のサービスを今秋に始めるとそれぞれ発表。新勢力が既存のビジネスの枠組みを壊す「ディスラプション(創造的破壊)」がゲーム業界でも進む。
これらのIT(情報技術)業界の巨人の資金力は文字通り桁違いだ。傘下にグーグルを持つアルファベットの直近の年間研究開発費は214億2000万ドル(2兆3776億円、QUICK・ファクトセット調べ)、アップルは142億4000万ドル(1兆5806億円、同)に上る。一方、任天堂の研究開発費は700億円(19年3月期見込み)。任天堂の首脳は「これまで以上にしっかりやらないと、うちの立場も盤石ではない」と危機感を募らせる。
ライバルのソニーやマイクロソフトは自社でのソフト配信のための基盤づくりを着々と進める。任天堂と長年の付き合いがある取引先幹部は「任天堂には次世代通信に関わる技術がない。必ずどこかで他社との組む必要が出てくる」と断言するが、まだ目立った動きは見えない。ここで後れを取れば、ダメージは計り知れない。
任天堂はもともと世の中に出回っている技術を用いて、アイデア1つで全く新しい遊びを生み出してきた。足りない技術を補うため、主導権を握りつつ他社を積極的に開発に加えた。
好例が07年に発売した健康管理ソフト「WiiFit」だ。体重計のようなボードとセットで、利用者はその上に乗ってバランスを取りながら、ソフトが示すトレーニングをこなす。累計販売が1億台超の大ヒットとなったゲーム機「Wii」向けで、同機の人気を支えた。
開発のきっかけは「体重計を使って何か新しい遊びができないか」という宮本の突拍子のない発想だった。担当の開発者たちが実現するセンサーを求めて東奔西走。オムロンに提供を断られるなど苦労を重ねる中で、たどり着いたのがミネベアの高性能の荷重センサーだった。ボード内部に4つ仕込み、微妙なバランスの変化を捉えられるようになり、子供から主婦、中高年までが夢中になった。
減る社外との連携
前出の取引先幹部は「ここ数年で目立ってコアの開発の部分で社外との交わりが減った」と指摘する。世界でも有名な大企業に成長するにつれ、自前主義が強まり、他社との連携も不得手になりつつあるように見える。
18年春にはパナソニックの住宅関連事業に参画するため、同社の米シリコンバレーの拠点に数人の開発者が常駐した。だが、成果が出ないままプロジェクトはいったん終了。同年にはモノが動く速さや方向を捉えるモーションセンシングの技術を持つ米スタートアップへの出資にも失敗した。他社と連携する能力の衰えは、独創性の足腰も弱めかねない。
任天堂の業績自体は好調だ。スイッチの発売2年目を迎えた19年3月期、新作の目玉ソフトを欠いた前半こそ苦戦したが、18年末に投入した「大乱闘スマッシュブラザーズ」などが大ヒット。18年4~12月期の連結営業利益は前年同期比41%増の2200億円で、通期見通し(2250億円)をほぼ達成した。
ヒットは「定番」ばかり
ただ自社ソフトの人気ランキングの上位はほとんどが過去から続く「定番」のシリーズだ。新機軸を打ち出したニンテンドーラボや腕を振って戦う格闘ゲームの「ARMS」などのゲームは伸び悩んでいる。
「岩田ほどは頑張れませんが、君島よりは頑張りますよ」。18年6月の社長就任直後に関連会社を訪れた古川俊太郎(47)は照れ笑いを浮かべながら語った。急逝した岩田の後を継いだ前社長の君島達己(69)は半ば路線が敷かれていたが、古川にはスイッチの次を生み出す責任がのしかかる。
一方で経営から開発まで幅広く口出し、任天堂の象徴だった岩田のワンマン体制から、集団指導体制への移行を図っている時期でもある。古川の発言にはその微妙な立ち位置への苦慮がにじむ。
「今年は異常事態だ」。あるサプライヤーは不安を漏らす。例年であれば3月初旬には固まる来期のゲーム機、ゲームソフトが販売計画が中旬になっても伝わってこなかった。古川ら経営陣の意見がまとまっておらず、部品の発注ができない。各サプライヤーの生産計画づくりが遅れ、困惑が広がった。
ヒット作の有無によって業績が乱交下する「ばくち経営」からの決別を目指す古川は、マリオなどのキャラクターを映画やテーマパークに活用し、安定的に利益を稼げる仕組み作りを目指す。
独創性こそ「エンジン」
古川は「独創的な商品やサービスを続けることが任天堂の成長のエンジン」と断言する。「開発陣を信頼している。うちは大丈夫」(首脳)とするが、その足元がおぼつかなくなっているように見える。
強力な独創性で大ヒット商品を生み出したが、大企業に成長した後、停滞する企業は少なくない。例えばソニー。1979年に発売した携帯音楽プレーヤー「ウォークマン」などが世界を席巻したが、大ヒット商品と呼べるものは94年発売のゲーム機「プレイステーション」まで遡る必要がある。同社初のサラリーマン社長として95年に就任した出井伸之の時代以降、大ヒット商品はほとんど生まれてない。
世界に誇るイノベーションを起こし続けてきた任天堂も組織の硬直化から逃れられず、国内の家電メーカーなどと同様に独創力をそがれてしまうのか。今、その岐路に立たされている。